白瀑不動尊縁起

=真澄記= 
「出羽の国山本の郡八森山の瀧の不動尊は、昔比叡山の自覚大師の智行である。 
大慈大悲で諸国を巡りこの国に来た大師は、遠い田舎の土地がゆえに、形は人でも心は鳥獣と同じ光景を幾度と目にした。 
ましてや衆生は悪しきこととは露とも思っていない。 
あわれに思った大師は、この八森の瀧の下で身を清め、冷冷の瀧水で百日の苦行の末、三尺の不動の像を刻み、この瀧の岩の上に安置した。そして民衆の国土安全と衆生済土を願った。 
その像は霊験あらたかで、遠近の里人に幸をもたらした他、賊からも神とあがめられるようになった。 
いつの頃はら、別当などもあって、尊像のある岩に庵を結んで香花を捧げ、御堂をしつらえた。 

秋の長雨、暁の霜などで、いつしか尊像は木の箸のように朽ち、住民は涙を流し袖をぬらしていた。 
国の守佐竹右京太夫義隅朝臣があわれと思い、民を仏の道に心がけさせようと、都にある自覚大師の造った不動像をかたどり、青銅で三尺の不動尊を鋳させて、即本山の大僧正を頼んで開眼供養を行った。 
貞享五年、堺の港をたった舟は津守の浦で嵐にあった。十艘ばかりの舟は風波にあてられ、近くの港へ避難したが、尊像を積んだ船は風雨にも負けず、わずか十三日で能代湊へ着いた。 

これを知った人々は沸き立ち、朽ち残った木造の御形を今の青銅の内に納めて、岩を平らにして、その年の七月に瀧に安置した。 

そののち、頼みをかけた衆生は、疫病・癌病を退け、冨貴長寿を与え、戦場でえは怨敵を千里の外へ退け、水難・火難・盗賊難みな消散し、一切諸願満足すると言う。

白爆神社

白爆の滝

滝の中の不動尊