松應寺縁起(秋田)

=真澄記=

龍淵山松應寺がある。岩の頭のささやかな地蔵菩薩堂を安置している。 路の辺(みちのべ)に池がある。昔はここを太平川が流れていてこの池は淵だったそうだ。 秋の蓮の浮葉に、村雨の名残の露を寒そうに見ながら坂を登って行く。 この寺の開山は、松原寺(亀像山補蛇禅寺)の無等良雄和尚である。


伝え聞きの話だが、無等良雄は万里小路中納言藤原藤房卿だろうと言われている。 この卿、ある年の三月十一日に八幡山の行幸の時、不二房

という僧を戒の師と頼んで、ひそかに出家して岩倉に人知れず隠れてしまった。

君(天皇)が驚き給いて、父の宣房の卿に仰せになって、戻るように説得したが、次の日「すみはつる山を うき世の人とは あらしや庭の松に應(こた)えん。」と残していずこかに行ってしまった。


また越の鷹の巣山で、「石にあぐらを組んで苔の衣にやつれた人を見た。」と、新田義助という者が吉野で語った。 それで、畑六郎左衛門時義を遣わして見定めたところ、はたして人がいた。

行くと、石の面に「ここもまた、うき世の人の問い来れば、空行雲に屋戸もとめてん」と残し、またいずこかに行ってしまった。

ひと草(ひと歌)を残して去るさまは、正に藤房卿に他あるまい。 その後、筑紫にいたと言う人もいたが、さらには知る人もいなくなった。 


火内(比内)の郡(現在の大館付近)と言いし昔、長走りの岡に近き松原村に天台寺があった。

その寺は廃寺であり藤倉の山のほとりに移して、亀像山補蛇禅寺と言った。その開眼は月泉良印和尚であった。


この法師の徳が高く、無等良雄和尚も従って補蛇禅寺にあった。 無等良雄和尚もやや老いて、山陰の閑とした地を求めた。

小林山西来院を建て行をしていたが、なお静かな所があればと、この寺もまた住み捨てて深き山中に入った。

その頃このあたりは山深く、木も生い茂り、杣(そま、きこり)、山賊すら通ることがまれであった。 岩打つ谷水の清き流れ、梢ふくあらし、水辺で遊ぶ群鳥、まさに寂聴にあけくれ、人の物音すらなかった。

「水に龍あれば霊おのづからある」の心を持ち、龍淵の山にあって、「すみはつる山を うき世の人とは あらしや庭に松に應(こた)えん。」とあったことを思い、この寺の号を松應寺としたと言われる。


松應寺境内の片隅に三尺あまりの石が建っている。

ずいぶん昔の文字でよく見えないが、ただ「開山和尚」とむげに書いてある。表面の苔も去年・今年のものではない。

これを思うに、貞治元年の遷化から今年で四百五十年にもなる。それを思えばしかたのないことだが、それにしても何たることか。

それとなくあるじの僧に聞いてみたら、寺の古い調度やそのゆえんは全く伝わっていなかった。

今はすでに「正應寺」と名を改めており、計り果てないものである。

「苔衣 清き昔のあととえば 人はあらしの松に應(こた)うる」 とそばの石に書いた。 


真澄:龍淵山松應寺 

現在の八田正応寺 

真澄:開山和尚の石碑 

正応寺に残る石碑