=真澄記=
天正の昔の物語である。
秋田の太平村の中程のあたりにそう高くない山があり、舞鶴ケ館とて古柵の跡がある。
右大将頼朝の世に恩賞として大江家(永井左近将監、大江広元)にこの太平の城を賜った。
永井廣忠まで六代を経ている。
「太平」とは「大江平」が訛ったものである。
永井家と秋田家の仲が悪くなり、廣忠は城介實季を討とうと、實季も廣忠を討とうと互いにためらっている時、廣忠は平鹿郡横手の小野寺義通に軍を進めた。
實季はゆっくりと攻め入り、ただちに廣忠が打ち負かされてしまった。
廣忠の嫡男千鶴麻麿は虜となり、城介實季の館に捕らえられていたが、後は一緒に宍戸や三春に戦いに行ったと言われている。
その戦場は陣の河原と言って川辺の森になって残っている。
矢ふすまを作って戦う姿は、左右のとが箭(とがせん:落ちた矢)を見れば田の字になっていたと言われている。
天正の昔の物語である。
真澄:舞鶴ケ館の跡
舞鶴ケ館の跡
舞鶴ケ館の跡