=真澄記=「勝手の雄弓」 このあたりの人の家では女の子が産まれると四月七日、八月八日の祭日には菖蒲を植えた。 男の子が産まれると木の弓、または竹の弓を作り、萱や竹に紙か杉皮の羽をつけた矢を添えて、一年に二回の祭事にこれを供えて、その将来が豊かであることを祈るならわしである。 吉野の勝手神社にはない風習であるが、子守の神として祈るのは、今の世の祈りの移りであろうか。 =「菅江真澄秋田の旅」(田口昌樹 秋田共同印刷 1992年) =より 城下の武士たちがいくさの神として祈るこの神社も、地元の人にとっては子育ての神だったことが面白い。 今、勝手神社に弓矢を奉納する習慣はなくなったが、菖蒲を植えた池は神社の北西の田んぼの中に残り、春から秋にかけて色とりどりの花をつけてくれる。 また、真澄が大杉と書いた杉の大木は今も健在であり、市の保存樹となっている。 黒澤は箕(み)作りの里であるが、藩の物産にかかわることでもあり、図絵に残ることはなかった。 <広辞苑から> み【箕】; 穀類をあおって殻・塵などを分け除く農具。竹・藤・桜などの皮を編んで作る。 |
真澄:勝手神社
真澄:勝手神社の大杉
真澄:勝手神社の宝物
勝手神社
勝手大杉跡
勝手神社境内
勝手神社の菖蒲園
<勝手神社由緒>(黒沢勝手神社立て札より)
神社の創建は古く、かっては金峰山膳重寺とも称し、鎌倉時代、御家人上杉安房守、古山内采女之助が法力館にこもるとき、軍神として大和国吉野勝手明神と勧請したと伝えられる。
その後、明暦二年(1655)四月には森沢に金根宮として遷され、明暦六年(1666)七月には、本願人渡辺主殿助、綱田野半左衛門、当村弥左衛門らが相議って、その地より再び遷宮をして現在地に建立されたものである。
この間、城代家老戸村十太夫は特に崇敬の念が篤く、十六の御尊体を寄進したと言う。
また神殿の中には古い仏頭が納められており、一に運慶の作と伝えられている。
明治五年(1872)には村社に列格されたが、零落著しく、明治八年一月に再建される。
明治四十二年(1909)十一月に館越鎮座の神明社と、稲荷鎮座の稲荷神社を合祀する。
昭和五十八年八月には本殿、幣殿、舞堂の屋根を全て銅版葺に改修し、翌年八月には大鳥居が再建されて現在に至る。
本社は氏子の崇敬も篤く、村中こぞって参詣のあとをたたなが、文化年中には、秋田藩主佐竹義和公をはじめ、那珂通博、菅江真澄、淀川盛品らの武士から文人墨客の参詣崇拝があり、近代には農林大臣町田忠治らの参詣もあった。
古くより勝手明神として崇められ、勝利成功の神格を有することから、特に武家に信仰されてきたものである。
また、男児、女児いずれも子守の神として心身健康を守護し給う神とされている。
境内に樹齢三百年の杉並木が存し、神宛一層の荘厳さを極めている古社である。
春秋の祭典には、飯の他は火食を断ち、生汁を調することが古例であったほか、たくあんがっこ、おぼこ餅を神前に供するもにである。
氏子中に男子が生まれると弓矢を奉納し、女子の出産には菖蒲を植えるのが習わしである。
氏子中の黒沢部落は、箕(み)の特産地として、当地でも稀なるものであるが、勝手明神の授け給える技術として、これを信奉して、この生業を他郷にて営むことを固く戒められてきたものである。
社家は一期院法印光善、番場伊賀守、周防守と棟札に見えて、
境内神社 大山テイ神社、金山彦神社、菅原神社の三社を祀り、俗に三宝荒神とも称される。
昭和六十年四月七日 黒沢部落