=真澄記=
その昔、佐竹義田隆公が、久保田の添川に鷹狩をした。
公、疲れて道の石に休んでいた。そこに、米を背負った牛を引き連れて戻ってくる翁が前を通った。
翁は沢山の人の中に公がいることなど、夢にも思わず公の前を行過ぎた。
公は「米はみな久保田へ運ぶものだが、この翁は反対に引き返してくる。不思議なことだ。」と言われた。
そこで役人に聞くように言ったところ、翁は「この米は公が朝夕食べる米だ。我が村では、お城に納める米は、皆で集まって一粒一粒選りすぐって納めている。だから、鷹狩でおいでの節は、お城の米倉から村の米を運んでくるのだ。この米をよからぬ米と言うのであれば、持って帰れ! 昨日もおとといもお倉から運んだ米を食べたはずだ!」
それを聞いた公は「それはどのような米なのだ?」と聞いたので、翁は俵に手を差し入れ、少しつかんで掌に載せて「これを見てくれ。良い米だろう。」と公に見せる。
公は「この米を私にくれ。」と言って、紙につつんで袖に入れられた。
そして牛を引いた翁を帰した。
城に帰って、公は倉の米を村別に一升ずつ集めさせ、懐紙の米と比べさせた。
人々いわく「このような良い米は、この倉の中に他にはありません。」と。
公は翁の話を聞かせたところ、皆呆れ顔でかしこみ居た。
公は「まさに鷹狩の手柄だ。」また、「これより、私も倉に入って米の良し悪しを選し試みる。」と米倉の中を一間高く作って、その上にあつ畳を敷いて、公の御座とした。
翁の村の米は御試米(おためしまい)として、最近まで倉の中柱に俵を置いたと言う。
また、その時公が休んだ石は、鬼越山の麓の濁川に近く、「御腰掛石」として、いまもなおある。