=真澄記=
その昔、八郎潟の東、五城目のあたりを浦と言いました。そして、浦の城主は三浦兵庫頭盛永と言って、平盛実の子孫ででした。
一方、北奥州の覇者となった安倍安東愛季は、秋田の檜山に城を構え、奥州平定を志しましたが、天正十五年(1587年)幼い実季を残して世を去りました。
愛季と言う大きな一枚岩でまとまっていた安倍安東氏は、愛季の死後、「湊(今の土崎)安東」と「檜山安東」に分かれて争い始めます。
浦(五城目)の城主である三浦氏は、湊安東氏に見方して戦いますが、諸豪族を味方につけた檜山安東の秋田城介実季が勝利し、三浦兵庫頭盛永は討ち死にしました。
この時、盛永の奥方は妊娠の身をもって、小池というところの別邸にかろうじて逃れ隠れていました。
ここで産気づいた夫人は、出産の時は非常に苦しんだそうです。里の女たちが集まって助けてくれたのですが、残念なことに、奥方はその後に亡くなってしまいました。
奥方は、その臨終の時に「お世話になってありがとう。そのお礼に、自分が死んだら安産の神となって、女たちの身を守る所存です。」と言って息を引き取ったと言います。
人々は深く嘆いて、土を掘ってその亡骸を埋め、その上に塚を築いて柳を植えました。
そして、その柳を「御前のしるし」だと言って、誰もが拝んだと言います。
近世になると、その塚も荒れ果てて、柳も年を経て枯れてしまったので、また別の柳を植えて、それを御前柳と言ったそうです。
江戸時代になり、国の守が佐竹氏の時代になりました。佐竹氏の一族で、東の館に住まわれる佐竹義路の夫人が、この神に子宝を祈ったところ、すぐに授かったそうです。しかも、大変安らかに出産することができたといいます。
佐竹義路が夫人に「それはどんな社であるか。」と訪ねたところ、「社はなく、柳だけです。」と答えました。
義路はそれを聞いてさっそく神社をお建てしようと、明和三年(1766年)の秋、清らかな社を築き、鳥居を建てて、二石の米をお酒料として奉納したと言います。
今でも、この御前柳大明神は、地域の人々に大切に信仰・保存され、毎年九月一日には神事を必ず行っているそうです。
真澄:御前柳大明神
五城目小池の御前柳
今も残る御前柳神社