<蚶満寺縁起>=AKOmovie記=
曹洞宗の古寺です。「かんまんじ」と読みます。
この寺は8世紀、蚶方法師という僧が、神功皇后の霊夢によってここに庵を結び、「蚶方寺(きさかたてら)」と言う皇后殿を建立したのがはじまりだそうです。
この土地の名「象潟(きさかた)」もこれに由来しています。 しかし、「蚶方寺」もすぐに地震で廃絶しています。
いつの頃からか、この跡は「蚶万寺跡」と書き間違えられ、「かんまんじあと」と呼ばれました。
その後の853年(仁寿3年)慈覚大師が東北巡錫に来たとき、この寺を再興し、干満寺と名づけました。
さらにその後の1257年、北条時頼が訪れ、寺名を蚶満寺としました。ちなみにこの寺の寺紋は北条氏の三ッ鱗です。
北条時頼は、象潟の景色のすばらしさについて、「惜しまれぬ命も今は惜しきかな また象潟を見んと思へば」と歌っています。
蚶満寺山門
蚶満寺
蚶満寺境内
<願掛け桜>=真澄記=
西行上人の「波に埋もれて」と言った桜は、(いにしえの桜は枯れて別の桜ではあるが)水の上に枝を差し出している。枝に紙を結んでいるが、何の願いを掛けているのだろう。
=AKOmovie記=
1174年、この地を訪れた西行法師が「蚶方の桜は波にうづもれて 花の上漕ぐ海士のつり舟」と詠んだ。
<親鸞腰掛の石 >=真澄記=
「これが親鸞聖人の腰掛けた石だ」と囲いを巡らせている。
石ふみには「汐越浄専寺、肥前国(九州島原)西方寺建立」とある。
冬枯れの潅木の傍らに、「象潟の雨やせいしか、、」と記しているのは、はせをの翁のつか石である。
短い衣を着た法師が、この腰掛け石に休んで「松島をしばしほかま見つつ来て、ここにあわれを象潟の浦」との聖人の歌を唱えて、南無阿弥陀仏と念じて去ったと人が語っている。
=真澄記=
三熊野の神を祀った岩ねに登って遠くを見た。
あまがさき・さいの神・とがさき・不動崎。
このあたりは荒波が打ち寄せて、恐ろしくも思えた。
時頼君はこの眺めに浮かれて、「惜しまれぬ命も今は惜しきかな また象潟を見んと思へば」と歌った。
十首の歌のひとつである。
=AKOmovie記=
北条時頼は、神功皇后ゆかりの地として象潟に四霊の地を定め、禁断殺生の令を宣じ、この寺に目通り四方二十町歩余の土地を寄付する墨付を下し、蚶満寺を再興した。