=真澄記=
昔、浦(五城目)の漁師に金野小鹿介という男がいた。
ある日、小鹿介は男鹿の涌出山に分け登った。今で言う真山である。
突然山の神が出でて言った。
「我をこの山の嶺に祀れば、汝の子、その次、更にその子孫もいや栄を守ってやろう。
まず、この島に住む蝦夷等を平定して、この島のあるじ(主)となれ。
汝が都に居れば、われもまた都にいよう。この島(昔、男鹿は島であった。)に住まえば、われもまたここを守り興そう。」
山の神は嶺の雲を分けて、眼の光はかくしゃくとして体は赤く、放つ光は山を照らした。
まさに赤髪嶽とでも言う様であった。
小鹿介は恐れかしこみ、渓流の水で手を清め、木の皮をはいで幣(にきて)とし、藤の花を折って奉じた。
そして、小鹿介は神の教えのままに蝦夷を攻め戦ったが、毒矢の弓に苦戦し、小鹿介もあやうい状態となった。
その時、俄かに空が曇り、雷鳴が鳴り響いて、あたりの蝦夷が雷に打たれた。
その結果、小鹿介は辛勝することができた。
「これは神の助けだ。」と小鹿介はたびたび嶺を訪れ赤神を祀った。
時がたって、安倍朝臣貞任がいくさをした時、金野小鹿介はこの赤神に祈り、敵退散の味方をした。
しかし、貞任は康平五年の戦に敗れ帰らぬ人となったが、小鹿介は貞任の若君と母君を連れて男鹿に戻ることができた。
小鹿介はこの母君を妻にめとり、この地で住んだ。しかし、若君が病に倒れ、十二月のある日に泰山府君の法行もむなしく、かくれ給いた。
康平六年若君の十七日の法会の後、貞任の御霊と若君の御霊を赤神の社に併せ祀り奉じた。
十年ののち、小鹿介は承暦元年七月に身まかった。
小鹿介に三人の子がいた。長男を小鹿卿、次男を彌五郎、三男を鹿治郎と言った。
次男の彌五郎は、地頭の河崎殿へ仕え、三男の鹿治郎は出家して前山に住んだ。
北浦には今も小鹿卿が残した色紙を祀る山王社がある