真人山物語<前九年の役>(増田)

=真澄記= 

後冷泉院(後朱雀院御子)の御時、陸奥の守源頼義が鎮守府将軍を兼ねて、貞任・宗任(安部時頼の子)を攻めた。 

永承の末から度々の合戦に疲れてはいたが、天喜5年11月に千三百余騎の兵を発して押し寄せたが、貞任等は四千余騎の勢を集め、河塙ノ柵(かわはなのたて)にこもって戦った。この時、雪は降り、風も激しくて、味方の兵はことごとく疲弊した。 

将軍は戦いに大敗し、死者は数知れず、兵は四方に散漫した。 

残るは六騎。長男義家、修理少進藤原景道、清原貞康(さだかど)、藤原季範、大宅光任、藤原則明等である。 

貞任の軍はこれを見て攻め寄せ、矢を雨のように飛ばした。これを防戦するのだから神のようである。 

義家、光任等五六騎で命を投げ打って四方をかく乱している間、貞任は引いていった。 


ここに佐伯経範というものがあった。軍は敗れて将軍の行方は知れない。逃げて散る歩兵に将軍の居場所を聞けば「貞任に囲まれて、皆逃れ難し」と言う。「将軍に仕えて三十余年を経て、われ一人でも行く」と言って郎党どもと敵に駆け入り、多くの敵を討ち取ってついに討ち死にした。 


藤原茂頼というものがあった。将軍の行方がわからない。敵の中で死しているならば、皮骨を拾おうと思い、頭を剃って敵陣の中を行く間に将軍と出会った。それは喜び、そして悲しんだ。将軍のくつわに取り付いて、涙を拭いた。 


その後 貞任を討とうと、出羽の国山北(せんぼく)の住人清原武則、一家の輩をすべて引きつれ、一万騎の兵をもって、康平五年七月に将軍の勢に加わった。 

山北は、山本(今の仙北郡)、平鹿、雄勝の三郡にわたっていて、古書には山北(せんぼく)三郡とある。 

八澤木の保呂羽山にも近いこの真人山は、この清原真人武則の住まいであったため、山北の住人と言われた。 

この真人山の中に(この時大軍が通った)古道がある。康平、治暦から元暦、文治の世までも人々が往復した道である。 


=史実= 

1056年(天喜4年)~1063年(康平6年)の朝廷(源氏)と俘囚(安倍氏)の戦いで、混戦の末源氏が勝利します。 


陸奥守として源頼義が着任してから、俘囚長安倍頼時は恭順の意を示していました。 

鎮守府将軍でもある源頼義は任期の最終年である1056年、交代の庶務を行うため胆沢城に赴き、滞在の後の帰路に阿久利川において権守藤原説貞の子息の野宿が襲われ、人馬が殺傷されます。 

藤原説貞の「犯人は安倍頼時の子息安倍貞任以外に考えられない」という言葉を聞いた源頼義は、一方的に貞任を処罰しようとしました。 

しかし頼時は貞任を庇い、衣川関を閉ざしてしまったため、源頼義は大いに怒り、安倍氏追討の大軍を発します。 


源頼義は安倍頼時の女婿となっていた平永衡を、安倍氏への内通の疑いで謀殺します。 

この事件を知った藤原経清は、自らも安倍頼時の女婿であったので、身の危険を感じ安倍氏側に走りました。 

このため、源頼義は安倍氏に対する先制攻撃の好機を失うこととなります。 


そのうちに源頼義の任期は終わりますが、後任の陸奥守藤原良綱は合戦の報を聞いて辞退したため、源頼義が再度陸奥守となります。 


源頼義は気仙郡司金為時(こんためとき)、下毛野興重(しもつけのおきしげ)らを遣わして奥地の俘囚を味方につけ、背後から安倍氏を攻撃させようとします。 

これに対し安倍頼時は自ら、彼らの説得に赴きますが、逆に伏兵の矢に倒れ死亡してしまいます。(天喜5年) 

しかし、貞任・宗任兄弟らを中心とした安倍氏の結束は固く徹底抗戦のかまえを崩しません。 

黄海で源頼義と安倍貞任が戦い、頼義は大敗を喫します。この敗戦の後、頼義は安倍氏を攻める力を失い、奥州は安倍氏が自由に跳梁する場となります。 

こうして前九年の役は長期戦の様相を呈していきました。 


康平5年5月、源頼義は降着した戦線を打破するため、出羽国の俘囚長清原氏に援軍を依頼しました。

ようやく頼義の求めに応じた清原武則は、一万余りの兵を率いて頼義の軍と合流しました。この後戦局は大いに変化し、康平5年9月、安倍氏最後の砦である厨川柵が陥落し、貞任は戦死。藤原経清は捕らえられ斬首。宗任は落ち延びますがその後に投降します。 


康平6年奥州合戦の戦功に対する除目が行われ、源頼義が正四位下伊予守、長男の源義家は従五位下出羽守、次男源義綱は左衛門尉に任官しました。 

清原武則は従五位下鎮守府将軍となったそうですが、在地豪族がこの官に任ぜられるのは破格のことであったそうです。